宇津地域とは
○平安時代ー下宇津では律令制度のゆるみから京に「炭」を売りに行く者、若狭から魚を売りに行く者が往来し、京の商人との物々交換が盛んに行なわれていました。
○鎌倉時代ー中期から後期にかけて、桂川流域は禁裏百姓、寺領百姓として、農業技術がすすみ、牛や馬を使い耕作が行なわれていました。
○江戸時代ー明智光秀の丹波平定以後、江戸時代を通じて皇室領、門跡地領、旗本領に細分されました。柏原・弓規・栃本・中地・栗生谷・浮井・明石の7部落に分かれ、園部藩主小出候の所領になりました。当時、下宇津特産品は、薪・炭で、水運や峠道を人や牛の背により運ばれました。また、上流や支流から集められた木材を組み直す中継地点でもありました。
○明治時代ーこの頃から寺子屋など、教育の場が増えていきました。
○大正時代ー大正10年末、宇津村の人口は戸数191、人口(男)528名、(女)441名計969名。現在の宇津の人口の倍近い人が生活をしていたことになります。生業は米作農林業薪・炭を営み、養蚕も盛んに行なわれていました。特産品は、柿実・篠竹製笊で、各地に出荷されていました。
○昭和時代ー笠トンネルや小学校の着工など京都市内との距離が近くなっりました。この時期最大の出来事は「日吉ダム問題」でした。
○平成時代ー構想以来38年、日吉ダムが完成し、上流にあたる宇津の集落も変化します。宇津峡も姿を変え、京北随一の魚場は同時に消滅してしまいました。桂川の両側に連絡道が整備され、日吉側への移動が短縮されました。さらに、下水道完備など衛生面の向上もありました。弓槻トンネルの開通により、峡と市街地との距離がさらに近くなりました。京都市に合併編入、京都市右京区京北宇津となり、現在に至ります。
学ぶ宇津
宇津の魅力を深掘り
安倍貞任伝説
安倍貞任は東北、岩手県で絶大な力を持っていた武将です。
平安時代、源頼義と領地を巡り争い、勃発した前九年の役によって討ち取られ、京北の各地に埋葬されました。
これは京の都の陰陽師が東西南北にある川のある土地に体を7分割にして埋めるように占い、進言したからです。
安倍貞任の亡骸を切断した場所を「切畑」といい、それぞれ体を埋めた場所には貞任にまつわる体の部分の名前が付けられました。
頭を埋めた場所は貞任峠、肩を埋めた場所は高谷、足手山、人尾山などがあります。
しかし、貞任の怨霊が京北に住む近隣の村人や埋葬地を通る5人たちに災いをもたらしたために、源義家が九州の宇佐八幡より観請し宇津の八幡に貞任の霊を祀ることになりました。その結果、災いは止み、安倍貞任は京北の土地で眠ることになりました。
引用元:NPO法人フロンティア協会設置看板(本事業助成事業 下宇津区 平成十七年八月二十八日)
宇津城
宇津城は現在京都市右京区に合併された丹波国北桑田郡に位置し、宇津荘を押さえて丹波国東部に勢力を張った宇津氏が本拠とした戦国山城です。宇津氏は美濃源氏土岐氏の後裔といいますが、その事績は滅亡によって記録が失われ不明なところが多いとされています。
宇津氏の祖という頼顕は土岐頼遠の子に生まれました。成人した頼顕は神護寺領有頭郷に起こった土一揆を制圧したのち、神護寺に帰ることなく有頭郷を押領、在名にちなんで宇津豊後守頼顕と名乗ります。かくして、宇津豊後守は宇津八幡宮の後方の山上に居城を築き、近隣に勢力を伸ばして小粒ながらも戦国大名に成長しました。
応仁の乱後、下剋上が横行する乱世になると、宇津氏も時代の波にのって勢力を拡大しました。
現在、城址からの展望は木々に遮られてまったく利きませんが、当時は西方を流れる大堰川、直下を通じる周山道を眼下に見下ろし、北西の支城-嶽山城も眺望できたことでしょう。小さな城ではありますが、丹波と京を結ぶ水陸の要衝を占める重要な城であったことが実感されます。